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プロダクトデザイナーのデザイン思考ノート

ラーメンが他の麺類に圧勝した理由を真面目に考える

ラーメンマニアはいても、うどんマニアや焼きそばマニア、そうめんマニアは知りません。

どうしてラーメンは人を惹き付けるのか。

食べ物で激戦区を形成する力があるのはラーメンぐらいでしょう。

ラーメンが他の麺類に圧勝した理由を真面目に考えてみました。

まずはとっかかりとして、私は「麺・スープ・具」からなるラーメンという形式に、「五・七・五」からなる俳句という形式を重ねました。

形式には大衆文化を形成する力があるはずです。

形式には程よい自由と制約(規制)がそなわっている場合が多いように思うことが理由です。

西部邁氏は、自由という価値と、規制という規範の平衡に活力があると論じました。

その概念図を著書「知性の構造」より拝借したものが以下です(一部改訂)。

規制なき自由は放縦であり、自由なき規制は抑圧となります。

自由の過剰も、規制の過剰も人間の精神を転落させるけれど、

両者の平衡、つまりバランスがとれていることが活力を生むということです。

「枠組みが、創造を誘発する」と記したのは榮久庵憲司氏でした。

平衡が生む活力により創造が誘発されるといってもよいと思います。

規制という規範は人々の中に尺度を形成し、その尺度でもって対象の比較や評価が行えるとすれば、大衆(素人)でも「わかる」ので評価しやすく、参加もしやすい。

このことが文化の形成に繋がっていると言えます。

俳句という文化は、「五・七・五」だけでは人々はどうしたらよいのか「わからなかった」かもしれません(わかったかもしれないけれど)。

しかし、「季語」などの更なる制約(規制)が加わることで、それは「型」として創造を後押しする力となるとともに、評価のための尺度となります。

「型」と照らし合わせることで評価可能となるのだという考えです。

また、「型」により誰が詠んでも「それらしく」なることは重要です。

俳句は自由が担保する表現の可能性と、制約が担保するハードルの低さが絶妙なバランスにあったのだと思います。

仮に規制が過剰であったならば、それは抑圧でしかなく、残るものはテンプレートでしかなくなるでしょう。

このテンプレート、つまり抑圧の対極に位置するものが一部の芸術なのだろうと思いますが、それは自由の過剰ゆえ、大衆(素人)にとっては尺度を持つことが困難であるため評価不能となります。

何かしらの魅力は感じれど、「私にはよくわかんないや」という声が聞こえてくるのは恐らくこのためです。

はっきり申し上げて、ジョン・ケージなどの現代音楽は私にはさっぱりわかりません!

試みが新しかったり、斬新なことだけはわかるのですが、基本的に理解不能です。

そして恥ずかしながら、絵画の良し悪しも感覚的な好き嫌いでしか判断できません・・・

さて、自由と規制の平衡からくる活力により創造が誘発されると書きましたが、自由もしくは自由の過剰に芸術を位置づけるとなると、芸術における創造の誘発の説明がつきません。

私は芸術家ではありませんし、想像の域を脱することかないませんが、その自由の過剰を打ち消すほどの強力な自己への抑制(それが何かはわかりませんが)を持って精神の均衡をとっているのだろうと思います。

創造性と精神病の関連性は、誰しも噂レベルでは耳にしたことはあると思います。

断定はできませんが、以下、精神科医の方が書いているとおぼしき興味深い記事ネットクリニックより引用させてもらいます。

精神分裂病

ゴッホ(非定型精神病)、ニーチェ(分裂病)、ヘルダーリン(分裂病)、カフカ(分裂病)、フローベール(てんかん)、ワーグナー、夏目漱石など精神分 裂病を患った天才は、枚挙にいとまがありません。

ムンク(分裂病)は幻覚そのものを『叫び』に描いています。ドストエフスキーはてんかんの体験を『白痴』 に詳しく書いています。

迫害妄想に苦しんだルソーは、人権の思想を生み出しました。
分裂病圏の人は、臨床的な発病前の時期に、「真の存在」との出会いへの強い意志と激しい情熱が認められることがしばしばあります。

彼らにとって、創造行為とは死を賭した冒険なのです。

創造行為は分裂病の発病状況の一つです。

想像の冒険の旅に出る芸術家には、創造行為は自己破壊の危険を覚悟した、果敢な真の存在追究の試みなのです。

「私が愛するのは、自分自身を超えて創造しようとし、そのために破壊する者だ」——ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

気分障害

Jamisonがイギリスとアイルランドの少なくとも一つの賞を取った詩人、小説家、芸術家47人を面接したところ、38%が感情障害の治療歴を持って います。

また、軽躁状態(高揚状態)の時に高い生産性が発揮されるようです。

芸術家は感情障害のハイリスクを持ち、自殺の危険性が高いと共に、気分障害が 創造性の発現に寄与しているようです。

人格障害  Postが291名の世界的著名人を調べたところ、人格障害の基準(DSM-III-R)を満たす者はいなかったものの、人格障害の傾向が見られる者は、 作家では90%、科学者では50%弱であったという。

クラスター別では、引きこもりがちで臆病といったC群が38.9%と高かった。

彼らがもともと病んでいたかと言えば、決してそうではないと思います。

病んでいたから高い創造性を発揮したのではなく、圧力の高すぎる創造性が精神を崩したのではないでしょうか。

100gの自由と100gの規制が天秤の上でバランスを崩しても、大したことではないでしょう。

しかし、1tという重圧で精神のバランスを保っていたとしたら、そのバランス崩壊の衝撃と反動は恐ろしいものだということは想像がつきます。

「創造行為は自己破壊の危険を覚悟した、果敢な真の存在追究の試みなのです。」

この言葉は真実なのだと感じます。

話を戻すと、要は、自由と規制の平衡にある形式は人々に活力を与え、創造性を誘発する。

自由は表現の可能性を担保し、成果物のバリエーションという楽しさをもたらす。

規制は評価の尺度をつくるとともに、ある種の「型」として働くので誰もが参加しやすく、大衆化する。

これを踏まえると、俳句の大衆性も、ラーメンの大衆性も合点がいった気がします。

うどんやそうめんも文化として定着しているもので素晴らしい食べ物だと思いますが、ラーメンとの比較においては構成要素の自由度が低いことが敗因だと言えます。

高い完成度を誇るものの、自由度が低いため、ラーメンほどの活力という熱は見当たりません。

あくまでものごとの一側面を切り取るに過ぎないことは重々承知の上で言いますが、裏を返せば、何かを大衆化し文化として定着させるためには自由と規制の平衡というのは一つの方法論です。

そういった視点で見ると、歴史の浅いラップミュージックが急速に勢いをつけ、今ではビルボードの上位に当たり前のように食い込んでいることも、2ちゃんねるが最早それ抜きには日本のネットカルチャーを語れないほどになったのも説明できるかもしれません。

ラップという形式を成立させているのは韻を踏むという制約であり、2ちゃんねるという形式を成立させているのは、特定のタイミングで特定の言い回しやAAを用いるという(柔らかな)ルールです。

この「型」に則ってさえいれば、「それらしく」なるところがポイントでしょう。

ブログの「型」やTwitterの140文字制限も同様だと思っています。

成功した事例をとりあげて、「これはそうだ!」というのは後ろめたいのですが・・・

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自由の過剰を打ち消すほどの強力な自己への抑制(それが何かはわかりませんが)を持って精神の均衡をとっているのだろうと思います。
→個々の手法(突き詰めて行くべき)は抑制にはなってるかな。もちろん自分のオリジナルの新しい手法。ただ表現する人は悲しきかな、その強力な抑制を自ら打ち破って進深化していかなくちゃならない(はず)。苦しい過程で作品が変化できても、それが一般的に自由だという印象を与えてる事はあるかもね。
でも、やっぱり芸術は自由、何でもありなんだよ。って言われた事(約2年前)があってこんがらがったことはあったよ。

成功した事例をとりあげて、「これはそうだ!」というのは後ろめたいのですが・・・
→言わないよりかはよっぽどグッドバイブス。

2010 年 4 月 13 日 3:42 PM posted by jun

>>jun
個々の手法(突き詰めて行くべき)は抑制にはなってるかな。もちろん自分のオリジナルの新しい手法。ただ表現する人は悲しきかな、その強力な抑制を自ら打ち破って進深化していかなくちゃならない(はず)。苦しい過程で作品が変化できても、それが一般的に自由だという印象を与えてる事はあるかもね。
→なるほど、納得。くだけた言い方すると、よく言われる「自分のスタイルを貫き通す」っていう感じかな?自分に対する圧力になってそうだね。それがないと力強くないというかフワフワしがちというか・・・
ストイック(禁欲的)っていうのはどうなんだ?ってのは今ふと思った。

2010 年 4 月 13 日 9:18 PM posted by shimano

「自分のスタイルを貫き通す」っていう感じ
→ちょと違うかな、様式は変わっていくのが常だから。スタイルは完成してる人はいない。一般的にスタイルが確立したと思われてる作家などは、結局その作風を求められてしまって、前に進めてない、もしくはこれでいいのだ、と思っちゃってる怠慢か。
要は、表現するときにスタイルとは別に「自己への抑制」があって、それは単純に絵を描く時の技法、ルール、だったりするし、得意な描き方をしないっていうものもあるし。あとは表現してる意味、内容について抑制があったとしてもそれは今言及できないなー。
禁欲的→的得てます。と、俺は思うよ。

2010 年 4 月 14 日 10:48 AM posted by jun